愛玩条約

先生は私を「可哀想で可愛い、痛々しくって愛おしい」と言った

同棲

「ケ」と「ハレ」の概念について学んだ時、「ケガレ」をひどく恐ろしく感じた。そしてその時の恐ろしさが、私が幸福や安定から逃走する原因となっているのだと思う。

 

「日常」「暮らし」というものは刺激の対極にあって、極論「つまらない」ものである。そしてそれが、どんなに素晴らしいものであっても、小さな不満が積もっていくものであることも、ずっと嫌だった。

 

「愛の日常化」なんてものは、カトリック神学の欺瞞であって、現実社会にあるのは薄れてゆく愛だけだ。生活は愛を摩耗させる。かつてそこに存在したはずの愛が、生活を通すことですり減って無くなってしまうのが、私は怖い。

「日常」が愛の発露の場になってしまったら、「ケ」になってしまったら、「ケ」が枯れた時に「ハレ」を求めて君がどこかに行ってしまうのが怖い。

だから、恋愛というものを「ハレ」の場に置くことで、日常と切り離すことで、それの価値を貶めないでおきたい。

 

と、2016年の夏頃に考えていて、今でもその時の思考に少し引っ張られているので、誰かと一緒に暮らすのはまだ怖いんですよね。