口唇期
男根が無くなるとおしゃぶりを取り上げられた子供のように泣いてしまうのをやめられないと、誰からも愛されなくなってしまいますよ。
年齢相応の落ち着きを手に入れたい。
この年齢に至るまでに得られなかったものに執着して、今、それを取り返そうとしても、取り返せないし、量的な問題ではないので。
皆が若い時に摂取していたものを得られなかったことと、その頃それを打ち捨てて励んだ勉学で得たものがなかったことは、別個にして考えないとね。
本当は分かっているけれど、でも何とか今からでも取り返したいと思うのは、「向上心」なんですかね。それとも、「悋気」なのかな。
いつか
実現する気のない「いつか」について語る人って不誠実だよね。
いつか旅行いきたいね、とかこちらは本当にそう思って話しているから、少しばかり期待してしまうのに……。
一切実現する気のない未来について、その時の場を繋げるために思ってもないことを言うなんてずるいよね。
私は、君と、
いつか一緒に幸せになりたかったんだけどな。
同棲
「ケ」と「ハレ」の概念について学んだ時、「ケガレ」をひどく恐ろしく感じた。そしてその時の恐ろしさが、私が幸福や安定から逃走する原因となっているのだと思う。
「日常」「暮らし」というものは刺激の対極にあって、極論「つまらない」ものである。そしてそれが、どんなに素晴らしいものであっても、小さな不満が積もっていくものであることも、ずっと嫌だった。
「愛の日常化」なんてものは、カトリック神学の欺瞞であって、現実社会にあるのは薄れてゆく愛だけだ。生活は愛を摩耗させる。かつてそこに存在したはずの愛が、生活を通すことですり減って無くなってしまうのが、私は怖い。
「日常」が愛の発露の場になってしまったら、「ケ」になってしまったら、「ケ」が枯れた時に「ハレ」を求めて君がどこかに行ってしまうのが怖い。
だから、恋愛というものを「ハレ」の場に置くことで、日常と切り離すことで、それの価値を貶めないでおきたい。
と、2016年の夏頃に考えていて、今でもその時の思考に少し引っ張られているので、誰かと一緒に暮らすのはまだ怖いんですよね。
近況報告
最近UberEATSで食べ物を買って投げ捨てるのにハマっています。
今までは過食嘔吐をしていたのですが、逆流性食道炎がひどいのと、注文時に感じてた空腹が持続せず、届いた頃には口に入れる行為すら面倒になってしまって……。
モノを蔑ろにするのは気持ちいい、んでしょうね。私自身だけが蔑ろにされるのに耐えられないので、私自身も何かを蔑ろにすることでバランス取ろうとしてるのは悪かもしれません。対象が人間でないだけ、私は優しいと思いますが……。
綺麗に整えられた料理。きっと誰かに食べられること思ってはるばる運ばれてきたんだね。可哀想に。って思いながらぐしゃぐしゃにして捨てると、自分が優位になった気がして一時的に幸福を感じます。
化粧をして綺麗な服を着て髪を巻いてもドタキャンされたり遅刻されたり蔑ろにされてきた私の魂が、少しは救われて欲しいですね。
誰も慰めてくれないのでこういったことをして、
自分を慰めています。私に石を投げて良いのは、人生で一度も他者のことを蔑ろにしたことの無い、清い人たちだけです。